生年不満百 ~ 西村 徳之

 去る令和5年8月17日に、西村医院の創設者であり私の父である 西村 徳之 が91歳で永眠しました。

 ここに故人がある会誌に寄稿した「古希を迎えて」という文をご紹介し、皆様からの生前のご厚誼への深謝のあいさつに代えたいと思います。

 今後とも私と靖子、スタッフとともに、故人の遺志を継ぎ地域の医療と健康のために専心努力してまいります。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

医療法人社団恵風会 西村医院 理事長 西村一宣

 

古稀を迎えて

 

 7・7・7 これは私の生年月日です。これを聞いたり、見たりした人は、ラッキーナンバーですねとか、スリーセブンですか、と言ってくださいます。

 私は、そうですか?でも今まであまりいいことはありませんでしたよ。とかと答えます。

 私には生涯忘れがたい3人の『医』に関する師が居られます。古稀を迎えるに当たり、少しこのことに触れてみたいと思います。

 日本が大陸侵攻を目指して軍閥が強くなってきた、5・15事件の年に生まれ、五年後の7月7日には、蘆溝橋事件が起こっています。生来あまり頑健でなかった私は病気がちで、食糧事情も悪く佐賀市立勧興尋常小学校五年のときには腸疾患のために数ヶ月床に伏せっていました。当時の校医さんで八幡小路にあった富永春樹先生に往診をしてもらったり、医院に受診に行ったりしていましたが、広大な敷地の医院の入り口には数本の大きな木があり私の気分がいいときは、その木に登ったりして遊んでいました。五年生を半年以上休んでいましたので、学業が遅れ両親が先生に相談したところ先生はいつもの優しい目で私を見つめ、もう一度五年に行くように薦めてくださいました。

 その頃、子供ながらに漠然とあの富永先生のような医者になりたい、と思ったようです。

 先人が言っておられます、

 

「上医は国を医やし、中医は人を医やし、下医は病を医やす。

 上医は声を聞き、中医は色を察し、下医は脈を診す。

 上医は未だ病まざるを医やし、中医は病まんとする病を医やし、下医はまさに病むの病を医やす」 と

 

 その時の富永春樹先生の慈父のような眼は、まさにこのようなものではなかったかと思います。今は、広かった敷地も中央大通りによって分断され、また八幡小路も道が広くなり、元の姿がないのが残念です。

 終戦の翌年昭和21(1946)年3月、7年間の小学校を終え、(当時体重24kg)4月に佐賀中学校に入学しました。その後学制改革により、6年間の中学、高校生活を過ごし、昭和27(1952)年4月久留米大学商学部医学進学課程を経て、医学部に進学し卒業後インターンを終了、学生時代より尊敬していた、西村正也教授が主宰される、久留米大学第Ⅱ外科に入局しました。教授からは、診断学の厳しさ、診療における考え方、手術の技術はもとより、人命の尊さ、思いやりの心を教えていただき、又研究では、「冠不全の外科的治療」のテーマを頂きました。先生の眼鏡の奥の眼光の厳しさに、近くづき難い畏怖の念を抱いていましたが、また他方優しい心の一面を見せていただき心から尊敬の気持ちを持っていました。

 先生の「座右の銘」である、[流れに逆らわず]を次のような言葉で、以前発行されていたクリニシアンに掲載しておられました。

 

 「世の中には川の流れの如く一定した流れがあり、これに逆らうことは不可能である。私は車の流れを例にとって見たい。街に溢れる無数の車が常に同じ方向にスムーズに流れている。これに逆らうことは大きな誤りのもととなる。(中略)これは人間の尊い生命を預かる医師が、一生のあいだ絶えず研鑽を積んで医学の進歩に遅れないように努めることと似ている。決して無理に前の人を追い越す必要はない。しかしひと時も停止することは許されない。また私利私欲のために他人をおとしいれたり押しのけたり、あるいはこれに逆らって進んでも、なんら得る所はなく、むしろ大きな過ちを犯し信頼を失うこととなる。 

 このことはすべてを患者のために捧げる医師として、特に必要な心がけであると思う。(後略)」と書いておられます。

 

 誠に含蓄のある言葉で私の心の奥底に何時までも残る教えでした。

 昭和42(1967)年10月より久留米市にある、聖マリア病院外科に勤務いたしました。当時の院長であった、井手一郎先生はほとばしるような情熱の持ち主で、病院経営の傍ら日夜患者の診療に従事されていました。

 徹底した患者サービスと、私利私欲を捨て人種や宗教、社会的地位などを差別しない合理的な病院経営で、日夜運び込んでこられる救急患者に対する人類至上の診療の心構えは、大学で育った当時の私には驚くことばかりでした。このような考え方も、私のその後の医師としての生き方に、たぶんに影響しております。

 以上の3人の師の教えに影響を受け、私のこれからのことを考えていたとき、奇しくも次のような言葉に接し、昭和45(1970)年8月わたしの医院を開業するに当たり、この言葉を「院訓」とすることとし、職員にも見えるように処置室に掲載しております。

 

一、 医業に携わるものは全生涯を人類のために捧げ、人間の生命を至上のものとして尊重しなければならない。

一、病者の身心を癒し健康を護ることが医業の第一義でなければならない。

一、謙虚、信念、誠実、仁愛をもって医療を実践し人々から尊敬と信頼を得るようにしなければならない

一、 人種、宗教、国籍、政治、経済、社会的地位の如何によって病者を差別待遇してはならない。

一、わが師を敬い感謝を捧げ、同僚は兄弟と見做さねばならない。

 

 私も7月で、ただ単に70歳という馬齢を重ね、何一つこの「院訓」のような実行は出来ないまま過ごしてきました。凡人の悲しさで、これからも多分出来ないだろうと思っております。しかし、気持ちだけは持ち続けたいと思います。

 ここで折角与えられた機会ですので、長くなりますが「古稀」について文献をもとに書いてみます。

 

唐の詩人杜甫(712~770)の「曲江二首」のその二に書いてあります。原文は勿論漢文です。

 

朝 囘 日 日 典 春 衣, 毎 日 江 頭 盡 醉 歸

酒 債 尋 常 行 處 有, 人 生 七 十 古 來 稀

穿 花 蛺 蝶 深 深 見, 點 水 蜻 蜓 款 款 飛

傳 語 風 光 共 流 轉, 暫 時 相 賞 莫 相 違

[書き下ろし]

 朝(ちょう)より回(かえ)りて日日春衣を典し毎日江頭に酔いを尽くして帰る、酒債尋常行く処に有り、人生七十古来稀なり、花を穿つ蛺蝶(きょうちょう)深々として見え、水に点ずる蜻蜒(せいえん)款款として飛ぶ、伝語す風光共に流転して、暫時相賞して相違うこと莫れと。

[解釈]

 毎日朝廷から退出すると、春の衣服を質種にしては典江のほとりで酔いしれて帰る。

 酒代の借金はどこに行くにもついて回るが、どうせ短い人生、七十歳まで生きるのは稀である。

 花の蜜を集める蝶たちが遠くかすかに見え、水面を尻尾で叩きながらゆるやかにとんぼが飛んでいる。

 春の風景に伝えよう。私はこの風景と共に時の流れに身を委ね、共に楽しみ、この風景から目をそらさないようにしようと。

 

 杜甫はこの時四七歳です。安禄山の乱(755)の後、長安の政府に職を得ていたが、その職は左拾遺と言ういわば閑職にあった杜甫が、やり場のない欲求不満を紛らわすための酒を飲み、この詩が生まれたと言われています。「共にお互いに」と言う意味の「共」「相」が繰り返され、「相違うこと莫れ」と、眼前の春、即ち自然だけは私を裏切らないでおくれ、だから私もよそ見をしないでこの風景を存分に愛でようと言う心情が表されています。

 「人生七十古来稀なり」も人生の短さを表すと共に、杜甫の投げ遣りな心境を表しているのではないでしょうか。

 因みに 三十歳…而立 四十歳…不惑 五十歳…知命 六十歳…耳順です。

 

 最後に、私の好きな漢詩を披露し責めを果たしたいと思います。

 

生 年 不 満 百

常 懐 千 載 憂

昼 短 苦 夜 長

何 不 秉 燭 遊

[書き下ろし]原文は漢詩(作者 不明)

 生年は百に満たず、常に千歳の憂いを懐く、昼は短くして夜の長きを苦しむ、何ぞ燭を秉(と)って遊ばざる。

[解釈]

 人は生きてもたかだか百年だ、くよくよ尽きないこの世の憂い、昼は短く夜ばかり長い、燭を灯してなぜ遊ばない。